天にいやせない悲しみはない。(トマス・ムーア)
 

縄文時代を思い起こす「山菜摘み」

山菜摘みで熊に襲われる――日本中が春を迎えるとしばしばニュースになります。被害者には申し訳ないことですが、私はこうしたニュースを知るたびに縄文時代を思い出します。

山野に自生する植物を採集して暮らしていた縄文人も熊や猪などに遭遇する脅威を感じながら日々を暮らしていたのだ、と。四季折々、地域独特の食用植物は長い時間をすぎても「薬草」や「伝統野菜」として脈々と生きています。すばらしいことです。

昨今の日本食ブームは世界中に広がっています。私たち日本人にとっては誇らしいことだと思いますが、その素材が持つ伝統=物語までは到底理解していないと思います。

縄文人は「採集・狩猟・漁労」の食文化で1万年以上というすばらしい縄文時代を築いてきました。栗やどんぐりなどの木の実を初め、草木などを適量収集して自然破壊をしていません。怪我や病気には植物が有効だということも学んでいたでしょう。医食同源はこのころから認識されていたと思います。豊かな森や川が豊富な植物を育てていました。そうした中からおいしい野菜の原種が保存・改良・育成されてきました。それが「伝統野菜」。先祖から引継ぎ、知恵と経験を重ねて改良してすばらしい味を生み出す情熱が日本各地に自慢の野菜として、今も食卓を飾っています。

代表的な野菜としてのねぎ。歴史は古く、文献に登場したのが1300年前の稲荷神社創建時に栽培を始めた、とあります。その代表が「九条ねぎ(京都)」。「味の箱舟(食の世界遺産)」に選ばれた「谷田部ねぎ(福井)」、徳川家御用達の「松本一本ねぎ(長野)」、江戸食文化の代表「千寿ねぎ(東京)」、王様といわれる「下仁田ねぎ(群馬)」などが有名です。なすにも“お国自慢”があります。生で食べてもみずみずしい「水なす(大阪)」、なすの女王といわれる「加茂なす(京都)」、徳川家康も愛したという「折戸なす(静岡)」、伊達政宗の時代から続く「仙台長なす(宮城)」、地域秘伝の「巾着なす(新潟)」など。大根とかぶでは「桜島(鹿児島)、「岩国(山口)」、「日野菜(滋賀)」、「津田(島根)」、「天王寺(大阪)」、聖護院(京都)」、「宮重(愛知)」、「河内(福井)」、「三浦(神奈川)」、「練馬(東京)」、「金町(東京)」など。珍しい野菜としては「阿房宮(青森)」「もってのほか(山形)の食用菊、万葉集にも読まれている「じゅんさい(秋田)」などがあります。

どの野菜もその土地の自然を尊重して独自の味や形を作り上げ、伝承し、そして特徴ある料理に仕立て上げています。特に京都には伝統野菜が多いといわれます。その理由は野菜の作り手と料理の作り手が一体となって「京の食文化」を継承してきたからだといわれています。しかし私はそれ以上に、ふるさとを愛する住民の人々の根強い「郷土愛」が特長ある伝統野菜を育成してきたと信じています。新開発の「野菜工場」との対比が面白いですが・・・

「クール・ジャパン」の掛け声で官民一体となって日本の伝統文化を海外に普及しようという試みはいいことだと思います。しかし忘れてはいけないことは産業を優先させることに比重を置き、その背景にある「日本の歴史・文化」があることを忘れてはいけません。世界の人びとの関心もそこにあるのですから。

縄文人の遺産

こんにち私たちが住む日本列島は、今から約10万年前に大陸から分かれたと言われます。南北に細長い列島は木々に覆われて海の幸が豊富でした。この恵まれた環境で縄文人は「自然との共生」という世界にも希な生き方を創生し、私たちに残してくれました。この考えは、「万物に生命が宿る」という日本独特の思想になっており、後々まで引き継がれてきました。

縄文時代の1万年は争いが無かったといわれています。やがて大陸から次々と異邦人、いわゆる弥生人が「水稲による米」を持って到来します。弥生人は大陸で「争うこと」つまり争うことは敗者から食糧や財産を奪うことを持ち込みました。この概念が無い縄文人は一時的には山中に身を隠しますが、やがて縄文人と弥生人は交流を初め「融合」します。このことは都市開発で次々と発掘された遺跡に、縄文土器と弥生土器が一緒に出てきたことで証明されています。長い年月を経て祖先が一つになったのです。言葉や文字のない時代にどのようにして意思の疎通を図ったのでしょうか。夢が膨らみますね。

この太古の時代に注目されるのが土器です。特に縄文土器は世界最古の土器といわれます。人類は「火」の使用で進化しました。食事は「生」か「焼く」だけでした。しかし縄文人は土器を使い「煮る」ことを可能にしました。食べ物の味は「甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩っぱい」が普通ですがそこに「旨い」を加えることができたのは土器のお陰です。世界中が注目する日本食(和食)の原点は1万年以上前に縄文・弥生人がつくり、私たちに遺してくれたのです。

弥生人からの贈り物

日本人の主食である米(ジャポニカ米)は弥生人によって持ち込まれました。長江下流域の江南を源流に、海路直接九州に来たルート、南から島伝いルート、そして朝鮮半島経由です。縄文時代晩期(3000~2000年前)すでに日本ではジャポニカ米の焼畑農耕が行われていたという説がありますが、村落で集団的に作られてはいなっかたと思います。

おそらく稲作と同時期には麹を使って酒を作る技術も伝えられたということです。3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝」には「人性酒を嗜む」「歌舞飲酒する」と書かれており、8世紀初頭に編纂された「古事記や日本書紀」には「やしおりの酒」「天の甜酒(あまのたむざけ)と記述されていますが、弥生人の渡来から1000年間位は空白です。おそらく雑穀を初め、木の実や果物が豊富にあった日本列島ですから、何らかの酒はあったと思います。記述することが好きな中国の古書を探す事ができるかもしれませんが、空白時をあれこれ想像するのも楽しいことです。もしかして、縄文人と弥生人が酒を酌み交わしながら「交流していた」などと考えてみてはいかがでしょうか。

日本食と日本酒は仲良く手を組んで、日本列島を交流します。神と酒、日本食(和食)と酒、貴族や武士と酒、庶民の生活と酒。そしてビジネスと酒。日本酒が織り成す「酒の話」を面白おかしく記述していきたいと思います。

栄養バランスの良い縄文人の「食生活」

新年初頭に東京新宿区市谷加賀町で縄文時代の遺跡が発見されました。4000年位前といいますから縄文中期から後期の集落でしょう。今後の調査結果に期待したいと思います。

日本列島の住人で、私たち日本人の祖先である縄文人はどのような食事をしていたのでしょうか。食事と酒は切っても切れない関係にあることは日常生活から容易に理解できることです。今日世界が注目する日本食の原点が縄文人の食生活からわかるようです。縄文人といっても、1万年以上も続き、細長い日本列島に住んでいましたから、ひと言で「縄文人とは」というにはかなり無理があります。しかし現在発掘されている多くの遺跡から推察してみます。縄文人は哺乳動物などの「狩猟」、魚介類などの「漁労」と木の実や草などの「採集」をしていました。初期段階は空腹を満たすために採集などをしていましたが、やがて食料を貯蔵・保存する方法を思いつきました。広場を囲んで竪穴住居が並び、貯蔵のための穴を共同で管理したようです。このように食料を保存することで人々は、食料を求めて遠くへ移動することなく「ムラ」を作って共存することができました。海や河川が近くにあることもそれぞれの「幸を慈しむ」習性を育てたのでしょう。また彼らは特定(おいしい)食料の乱獲をしません。その時々の旬の食材を採集することで種の絶滅を避け、それが栄養バランスを保持しました。ちなみに哺乳動物の「狩猟」は60種以上、魚介類の「漁労」は魚類で70種以上、貝類で350種。木の実や草類では300種以上を「採集」していたと言われています。

こうした食習慣が昨今、世界が評価する日本食の旨さ・美しさに加えて「健康」という要素の源流があるのではないでしょうか。そして食料を貯蔵することでムラを作り「定住する」ことで知恵を伝承することが出来、縄文文化として日本文化という大きな遺産の基を作ってくれたといえます。

稲作と日本食文化の変容

弥生時代は紀元前・後の約600年で古墳時代に続きます。弥生人によってもたらされた稲作は自然と共生する自然経済を消滅させます。田畑の手入れ、籾蒔き・雑草取りなどの労力が必要です。年間を費やすほどです。更に稲作は天候に左右されます。ひとたび冷害に見舞われればたちまち飢餓状態です。そうした危機を避けるために日本の土壌に鎮座していると信じられた八百万の神々を祭り、豊饒を祈る風習が生まれました。主食を米とする「主食・副食」の習慣もこの時代に始まります。やがて古墳時代を過ぎて大和朝廷が日本を統一し、欽明天皇の538年に仏教が伝来します。そこで日本食文化に異変が起きます。朝廷はその戒律と日本人特有の「穢れ観」を合体させて、肉食禁止令を出します。それ以降1200年間は獣肉を食さない民族になりました。その結果、日本人は食に対して主体性の無い雑食民族になり、世界中の食を受け入れ同化する日本型食生活の基盤を形成するようになったのです。しかし縄文人の自然崇拝と自然と共生する意志は敢然として残っていると思います。

「古事記1300年」を記念して

2012年は古事記が編纂されて1300年記念の年でした。画期的な年であり、日本中が盛り上がると期待していましたが、残念なことにその期待は外れてしまいました。20年も続いた経済不況が日本人の自信を喪失させた結果ではないでしょうか。ともあれ次は7年後の「日本書紀1300年」を盛り上げたいと念願しています。

日本人や日本語のルーツを探すことには大きなロマンがあります。戦後の日本史は考古学が主流です。モノの発見が唯一の証拠ですからどんなに楽しい夢を描いても、それらは「夢のひと言」で終わってしまいます。しかし日本酒を飲みながら「夢」を語り合うことも楽しいのではないでしょうか。常識として日本の古代史は、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代といったように区別します。しかしカレンダーを破くようには変りません。絵の具が滲むような変化です。文字が無かった当時の日本の状況は口伝で継承されていました。秦の始皇帝が中国全土を治め、文字も統一しました。その文字が日本にもたらされたことで古代日本を書き残すことが出来るようになりました。それが「古事記」です。日本の神話から始まります。「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」から「あまてらすおおみかみ(天照大神)」と「すさのうのみこと」が生まれ、「あまてらすおおみかみ」の子孫が「神武天皇」であるという壮大な神話です。神話の世界から現実の世界、つまり数千年も続く現在の天皇まで一直線に継続している事実は世界中を探してもありません。ギリシャ神話のゼウスの神の血統を継ぐアガメムノン(トロイ戦争のギリシャ軍の総大将・ミケーネ王)の子孫がギリシャにはいませんね。この稀有の神話を利用したのが戦前の軍部、全否定した戦後の教育です。

神武天皇の「東征」で始まる日本

いよいよ神武天皇は大和を目指して高天原(諸説あるが一応現在の宮崎県とする)を出発します。現在の北九州までは陸路で、その後は舟で瀬戸内海沿岸を進みます。各地で寄り道をして途中の土着の豪族を服従させながら10年近くかけて大和に着きますが、その直前に生駒山で土地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の軍と遭遇します。激戦だったようです。その時神武天皇の持つ弓の先に金色の不思議な鳥がとまりました。その鳥は稲妻のように光り輝いたので長髄彦の軍勢は目がくらみ敗退したとのことです。この「東征」途上で帰順した豪族たちはやがて大和朝廷の重要な家臣になりました。これら家臣の系譜がやがて中臣氏、大伴氏、物部氏など、歴史上重要な役割を果たしていくことになるのですから、単に「神話」として軽率に扱うことは出来ません。神武天皇がこの東征のときに詠んだとされる「久米歌(来目歌)」があります。久米歌とは和歌が誕生する前の歌謡のひとつです。

みつみつし 久米の子等が垣下に 植ゑし椒 口疼く 吾は忘れじ 撃ちてして止まむ

(勇猛な久米の兵どもが垣根に植えた山椒の実は、噛めばピリリと辛い。私は忘れずに唱えつづけよう。必ず打ち倒して見せると)

稲穂の国の「稲の酒」

日本人の先祖である縄文人は、今から1万3千年前にこの列島に住んでいました。山や森での狩猟、川や海で漁猟し、山野で採集するなどして豊かな自然と共生。老人が生活の知恵を語り継ぎ、1万年以上も縄文文化を築いていました。それが紀元前300年頃、大陸から稲をもって中国人が渡来しました。人びとは狩猟・漁労・採集を主体とする生活を放棄して水田稲作に移行してしまったのです。縄文時代が終わり、農耕主体の弥生時代の始まりです。

しかし、縄文の民は「自然との共生」という生活を捨てた代償に「稲の酒」という、すばらしい酒を手に入れました。今から2千数百年前、北九州の一角、現在の佐賀県や福岡県に整った水田が出来ました。本格的な水田稲作は弥生時代後期から古墳時代になってからのようですが、稲作・米食を主体の生活が始まりました。日本列島最大の革命といえるのではないでしょうか。稲作の伝来と同時に米を原料とする発酵酒も伝えられました。古墳時代の3世紀後半、日本の酒に関する記述が出現します。中国の史家陳寿が編纂した歴史書の一部として有名な「魏志・倭人伝」に次のように書かれています。倭人は「禾稲、紆麻を植え」、「人の性、酒を嗜む」、「歌舞飲酒をなす」と。卑弥呼の邪馬台国や倭の国々で、私たちの祖先は田に稲を植え、酒を作り、酒に酔ったのです。その酒は稲穂の国、日本の酒の原点である濁り酒です。

神々の酒

中国から文字が移入されて、日本では古代の出来事を文書にして残す動きが出てきました。712年天智天皇の命により編纂された「古事記にある神話の世界」にはすでに濁り酒があったのです。豪族たちが攻防を繰り広げ、やがて大和朝廷が大化の改新を経て中央集権国家の日本というクニが出来てゆきます。こうしたなかで大和朝廷は平城京(奈良)に酒造府として「酒造司(みきのつかさ)」をつくり、日本酒の形態を整え始めます。そして日本酒を神事の中心に据えた日本の国事が完成します。この時代の政治は政(まつりごと)で、祭事すなわち神事にはハレの飲み物として酒は不可欠でした。その場に会した人々は神々と共に酒を頂き、神の霊力を与えられました。宮廷の神事、節会などの儀式において饗宴は天皇の神秘的な霊力、すなわち「日御子」のご威光を酒のかたちで臣下が賜ること。その意味で宮中の饗宴はきわめて重要な儀礼であり、平城・平安の律令国家の時代、宮中の民はおびただしい量の酒を消費したのでしょう。酒は神のもの。神事や国事につながり、欠かせないものでした。

大化の改新はその後、次第に乱れました。「公地公民制」は藤原氏を頂点とする貴族たちや大きな寺社が荘園を拡張・私有することで国家の威信を著しく削ぐ結果になります。そうした権力の分散化により、各地の実力者がやがてその領地で生産された米を使って酒造りにまい進するようになります。本来「官製の酒」、古代の「神々の酒、天皇の酒」が民間でも堂々と作るようになったのです。今日の稲作の全国展開と地酒の普及がこの頃から始まっていたのでしょう。

「酒屋」の誕生

古代の「神々の酒、天皇の酒」は飛鳥、平城(奈良)、平安(京都)鎌倉と時代を経過するとともに、神社や寺院の手にゆだねられるようになりました。そして15~16世紀を迎えると日本列島は戦国時代の興亡期に入ります。その戦乱の中で社寺で作られていた日本酒は姿を消し、いつしか民間のなかで酒造りが勃興します。

慶長五(1600)年の関が原合戦、続く大阪冬の陣、夏の陣で豊臣家は滅亡します。時代は徳川に入り、日本中に新興都市が勃興します。寛永十二(1635)年に参勤交代が始まり、江戸は一大消費都市に成長します。ここで日本酒は一大転換期を迎えます。江戸幕府初期から中期にかけて「酒屋の酒」をリードしたのが伊丹や池田の「諸白(もろはく)でした。清酒は今日のように”せいしゅ”と言わずに”すみざけ”、または”もろはく”と呼ばれ、蒸米(掛け米)も麹も白米で作られていました。これに対して「濁酒」は”にごりざけ”とか”どぶろく”と呼ばれ、麹を玄米で作ったので片白(かたはく)と言いました。また「中汲(なかくみ)」は濁酒の上澄みの部分の薄濁り(うすにごり)の酒、あるいは日本酒のもろみの中に笊(ざる)を入れ、その中に溜まる薄濁りの酒といい、濁酒の最高級品でした。

「伊丹酒の江戸下り」

時は関が原決戦の直前、一人の若者が四斗樽二つを馬の背に乗せて大阪から江戸へ下りました。当時の江戸庶民や武士たちは味が粗末な濁り酒を飲んでいましたが、そこへ見事に澄んだ上方の酒が舞い込んだのです。その酒はあっという間に売切れました。その若者の名は新右衛門幸元、後に鴻池勝庵を名乗ります。戦国時代に主家の尼子家再興のために活躍しましたが毛利家に敗れて惨殺された悲運の武将、山中鹿之助幸盛の遺児でした。その幸元は摂津国・鴻池村(宝塚市)に閑居する伯父の山中信直に引き取られて少年期を過ごします。そしてお家再興を胸に秘め、酒造りを生活の糧としていました。

幸元の「伊丹の酒」は江戸で評判を呼び、年を追うごとに扱う酒の量を増やし、東海道は酒樽を背負う隊商で賑わったといわれます。大阪湾に注ぐ猪名川の上流の右岸に池田、やや下流の左岸に伊丹があります。現在池田は大阪府、伊丹は兵庫県ですが、過っては両者とも摂津国でした。幸元の江戸での成功に刺激を受けた池田でも江戸向けの酒造りにまい進します。まもなく大阪・淀川の河口、九条一帯が港湾として開発され、上方の産物を運ぶ廻船の便が開かれます。これはまもなく酒荷専門の「樽廻船」として独立します。伊丹・池田の酒は小船で猪名川を下り、大阪から樽廻船で江戸へ。流通手段も馬から船へと進歩しました。江戸の酒は完全に伊丹と池田の酒に制覇されました。その後元禄のころ、池田の酒は敗退し、伊丹酒は「下り酒」の高級品として独走態勢に入ります。その理由は伊丹酒の品質もさることながら、五摂家(公家)の筆頭であり伊丹領主であった近衛家の手厚い庇護と管理統制があったからです。今に続く「官による統制」がこの頃からあったようです。

文化と共に歩む日本酒

日本酒の原点は今から2000年以上前、稲作と共に渡来人によってもたらされたと言われます。当初は神々に捧げるという神聖なものでした。やがてその製造は民間にバトンタッチされ、江戸時代には隆盛を誇った「近衛殿御家領・摂州伊丹郷」の酒は、「灘五郷」に王座を譲ることになりました。それは「宮水(西宮の水)」の発見と六甲の山々を流れ下る急流を利用した水車精米などの技術革新、そして西宮港から直接樽廻船が使えるという流通革新によるものです。技術・流通の革新で江戸時代後期には伊丹の酒は完全に灘に敗北してしまいます。灘の酒は、明治に入って急速に台頭してきた伏見の酒と共に大量生産・大量流通・大量消費の体制を確立します。この江戸期の勢いはその後、明治・大正・昭和の三代にわたって日本酒の世界に君臨する原動力になります。

日本酒にとって水は命です。先に記した伏見の酒もその恩恵を受けています。御香宮(近鉄京都線・桃山御陵駅)の由来は、平安時代の貞観4年(862)にこの神社の境内から「香り」のよい水が湧き出したので、清和天皇より「御香宮」の名を賜ったといういわれがあります。伏見にはこの御香水(岩井の水)の他にも6つの名水があり、「伏見七ツ井」と呼ばれます。日本列島は豊かな自然に恵まれています。全国各地には「名水」があります。名水のあるところ「銘酒」あり。全国各地に「地酒」が誕生し、地方の文化と一体となり個性豊かな日本酒として人気を得てきました。その牽引車が「越乃寒梅」であったことは有名です。昭和38年に雑誌「酒」の編集長であった佐々木久子氏が週刊朝日に「幻の酒」として紹介したことがその発端でした。

日本酒の危機が到来

近年、日本酒の生産量が激減しています。戦後ピーク時の、昭和49年(1974)には970万石(1,746,000kl)あった生産量が平成19年(2007)には310万石(558,000kl)と68%も減少しています。生産する蔵元は平成13年(2001)1529蔵あったのが平成21年(2009)には1272蔵です。最盛期には4000蔵以上あったといわれていますからこちらも激減です。

その理由として業界は食生活、生活習慣、労働環境などの変化を挙げています。そして海外の日本食ブームに託して輸出に注力しようと努力を始めているようです。米国を初め台湾、韓国、香港など多くの国では人気があるようです。酒輸出は平成20年12,151klの実績です。海外における日本のブームは”Cool Japan”と言われており、国(政府)を挙げて日本文化の輸出に務めていますから海外マーケットに軸足を置くことには賛成です。尊い歴史を持ち、文化を伝承する日本酒は必ず「世界の酒」として承認されるでしょう。

広告会社で長年マーケティングに携わってきた著者としては日本市場にもまだ伸張の余地があると考えています。海外と国内市場は「表裏一体」「車の両輪」です。外国企業は「日本の消費者は世界一厳しい目を持つ」として、日本市場で成功することは「世界で成功する」こと、と言います。日本市場で「日本酒再生」が成功すれば必ず世界でも成功するでしょう。

日本酒は「和食」

2012年にちょっと奇異に感じる報道に接しました。「和食・日本人の伝統的な食文化」と題してユネスコ無形文化遺産(世界遺産)に登録申請したというニュースです。「和食」を料理そのものではなく、「自然を尊ぶ」という日本人の気質に基づいた「食に関する習わし」と位置づけています。ハンバーグや牛丼などのファストフードやコンビニが繁盛し、車内や歩きながらでもサンドイッチをパクつく現状でも「文化遺産」か。その後丹念に農林水産省などのホームページを読んでみましたが疑念が払拭されたわけではありません。そしてその申請文を読むうちに新たな疑問がわいてきました。「なぜ、日本酒が入っていないのか?」。

念のために申請文の要旨を次に記してみます。

多様で新鮮な食材と素材の味わいを活用。地域や季節に根ざした多様な味わいを活かす調理技術や道具の発達。

バランスがよく、健康的な食生活。一汁三菜を基本に「旨味」を上手に使い、日本人長寿のもと。

自然の美しさを表現。食器、花や葉のあしらい、盛り付け、そして調度品や生け花などを利用した自然空間・四季の構成。

年中行事とのかかわり。正月や収穫祭、人生儀礼や家族・友人・近隣との絆づくり。

なんとなく浮かぶのは一流料亭の宴会かな。日本人の庶民感覚では、小料理屋で板前”氏”と、居酒屋で”仲間”と。杯を交わしながら次々と話題が沸騰する・・・こんな雰囲気に欠かすことが出来ないのが「日本酒」です。その日本酒が日本の文化ではないのか、と思うのは私だけでしょうか。日本酒は「食中酒」といわれます。会話に「間」をつくり、料理と料理の「間」をつなぐなど和食の陰の力、否「名演出家」といっても過言ではないと思うのですが。
和食の原点は縄文時代、そして「米」

欧米系の人たちが箸を上手に使ってご飯を食べているシーンをよく見かけます。中国では日本産米は5倍以上でも飛ぶように売れています。多くの外国人は日本の米をおいしいと認めています。その「米の歴史」は日本の歴史ともいえるでしょう。一般的に米は弥生時代初期に渡来人によって持ち込まれたと言われており、私もそう教えられました。しかし、その後の研究から弥生時代に伝えられたのは「水田稲作」で、イネは縄文中期(6000年前)にはすでに日本列島に陸稲として伝来していたそうです。米にはインディカ米とジャポニカ米があり、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがあります。九州から東北まで、日本風土に適した温帯ジャポニカを選別し、水田稲作技術を学んだことで日本の米作りは飛躍的に成長しました。さらに畦道や水路の建設も進歩し、今日の水田稲作へと続きます。日本文化を語るとき「米」は欠かせません。世界無形遺産の登録申請を期に、日本食と日本酒の役割についてしばらく考えていきたいと思います。