天皇を制度の中に貶める愚
まことにまことしやかに通称されている天皇制たる言葉が一般化されていることは、天皇と天皇家に失礼としか言いようがない。これを一日本人として黙しておれずに一筆啓上したい。
元最高裁判事、園部逸夫氏が1月7日産経新聞上で天皇制とそれに準ずる言葉をあたかも当然のように連ねられていた。私が数えたところでは10回に及んでいた。小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」の座長代理を務めて人である。
なんという軽率認識をもって自らの論を天皇にあてはめているのか、心底をもって改めてほしい。
天皇は制度の中にあって存在していない。まず日本の黎明と日本人としてのアイデンティティーがなし崩しにされていく過程に憤りを感じる。天地を創造され、天の真ん中に座すアメノミナカヌシから始まって、イザナギ、イザナミの日本創成、ニニギノミコトからアマテラスに到り、初代天皇神武から今上天皇に到る125代を単なる制度の中に押し込めることにほかならない。
それ自体先祖伝来の日本人の父として男系天皇に流れる血を人間の制度の中に閉じ込める思想的イデオロギーの合理主義、日本人の心を抹殺する殺心行為であるとしかいいようがない。
私たち日本人の文化的財産の要として天皇は座す。人が人前に出る時に着る衣服のように、人が作成した制度ではない。むしろ人の中に流れている血液のような存在であり働きといえば、日本人以外の民族にとっては不可解極まりないかもしれないが、私たち日本人にとっては意味深いものなのである。天皇制は、でなく、天皇はである。天皇家は、である。そしてあるべき姿は、とりもなおさず日本人の象徴は、なのである。
制度である大統領制、共和制と同一視されるものではない。制度として取り扱われるものではない。天皇たる立ち位置と存在と意味を語る資格などない人たちが蔓延してきているように思えてならない。たとえその人が、一国の大統領であっても首相であっても、最高最高判事であっても、一位の市民であったとしても、天皇存在意義を今年、新しい天皇を迎えるにあたって熟慮していただきたい。
天皇家は、今岐路に立たされておられる。その判断を日本人である私たちは、政治的制度的に云々すること自体恐れ多いことである。
牧師の一言でした。
畠田秀生
聖書と日本フォーラム会長