声石
講演会レジメ 小石 豊
Ⅰ 同じ掛け声にびっくり
神社のお祭りでは、氏子たちが神様を象徴する箱「神輿」を担いで練り歩きます。その時の掛け声は、日本中大体同じですが、それを聞いていたユダヤ人がびっくりしました。自分たちの掛け声とほとんど同じだったからです。ユダヤ人は昔、エジプトから脱出した時、次の宿泊地に向かうため、神の臨在を象徴する契約の箱を運びました。
カッコ( )の中はヘブライ語の意味 (日本語とヘブル語の意味を比較)
エッサ エッサ(運べ 運べ)
ヨイショ ヨイショ(主は救いなり ヨイシェ ヨイシェ)
サッサイ サッサイ(主は悪魔を退けた イサガヤ サッサイ)
ワッショイ ワッショイ(主の救いが来る バー イエシュ イャー)
エンヤラヤー エンヤラヤー (我らは神を賛美するエアニアレルーヤー)
アリャリャ、ヤッショ (神は私の神 彼らは私の民となる)
アーリャサ(われ讃えまつらん、主権者を)
この他神道用語にはヘブル語起源と思われるものが多くあります。
「ハレ」は晴れ着など、めでたい用語でヘブル語では「栄光」。
「ケ」は世俗的で、ヘブル語では「俗」のこと。
神社の依代(ヨリシロ)のシロは神の乗り物。ヨリは降臨する。
社(ヤシロ)は神の斎場の意味。ヤーは唯一の神を短くしたもの。
シロは昔サムエルが礼拝を行った場所の名前。
神主(カンヌシ)はカムナシで長のこと。 京都の祇園(ギオン)はエルサレム(シオン)と同じ。禊(ミソギ)はミソグで聖別する。
お神輿は(ミコダッシュ)。祓う(ハラウ)は遠くに捨てるの意味です。
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Ⅱ ユダヤの歴史 「ダビデの道」
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)
信仰の父アブラハムに対して創造者である神が約束されたのは、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」ことでした。この信仰のスーパーDNAが彼の子孫の血筋の中を流れて行き、すべての民族に及ぶというのです。
百歳で生まれたイサクに続き、ヤコブには12人の子が生まれ、その一人ヨセフによってイスラエル人は、パレスチナからエジプトに移住しました。それまで70人に過ぎなかった一族は、400年を経過したとき、男の数で60万人へと拡大しました。
紀元前1275年。エジプトで奴隷のような状況に陥った彼らは、やがて指導者モーセによってエジプトを脱出。荒野で40年間にわたり、神から国家としての訓練を受け、後継者ヨシュアによって、約束の地、今のパレスチナに移住しました。
紀元前1000年頃。王を求めたイスラエルに対して与えられた最初の王サウルは、自分の王位を守るため、巨人ゴリアテを石投器で倒したダビデを憎んでしつこく追い廻し、ついにはペリシテとの戦場で自害しました。
ダビデは国民の信任厚く、30歳の時ヘブロンで王となりました。そしてエルサレムを都に定め、エルサレムに契約の箱を安置。国家としての安寧を確立しました。後のユダの王たちはこの「ダビデの道」を国家の霊的な基準としました。次の王ソロモンはエルサレムに神殿を建立しましたが、周囲の諸王国の王女を次々とめとり、偶像崇拝を繰り返しました。ソロモンが亡くなるとレハブアムが王位につきました。
紀元前933年。王国は二つに分裂。レハブアムは二支族ユダ、ベニヤミンによって「南朝ユダ王国」をまとめました。
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Ⅲ ヤロブアムの道
一方、十支族エフライム、マナセ、ルベン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリは、ヤロブアムによって建立され、「北朝イスラエル王国」となりました。
王国が分裂したとはいえ、十支族の人々の生活基盤は宗教行事を基礎とした暦や祭りが中心で、暦に従って祭りの中心地「エルサレム参り」を行いましたので、ヤロブアム王は非常に恐れ、それに対抗する新しい聖地を考えました。そして国の中央に位置するベテルと、北のダンの高き所に神殿を建立。それぞれ金の子牛像を安置させ、「エルサレムに行かなくとも、われわれには出エジプト時代に直結している像がある。」と言って、エルサレム参りから遠ざけようとしました。また新しい神殿だから、祭司はレビ人でなくとも誰でもできるとし、さらに仮庵の祭りを一か月遅らせて、8月15日に定めたのです。この宗教政策は後の王たちの「ヤロブアムの道」という、新しい基準となりました。
紀元前721年。北朝イスラエルは、290年間に9王朝19人の王が続きましたが、どの王も「ヤロブアムの道」に進み、中でも7代目のアハブはシドンの王女イゼベルと結婚。サマリヤにバアルの神殿を建立し、主の預言者を迫害しました。その時代に立ち上がったのが預言者エリヤであり、エリシャでした。当時のイスラエルは霊的に真の神を礼拝しながら、偶像礼拝も行っていました。
大変不思議なことですが、日本の伝統文化は、まさにこの「ヤロブアムの道」を継承しています。日本人は偶像大好き民族で、国宝の多くが仏像であり、像を拝み、教祖様を拝む宗教で溢れています。また、お城も神社の多くもまさに高き所にあります。山は神の臨在の場所です。そして誰でも使命感を持てば、祭司職に就くことができます。
ヤロブアムは過越しの祭りを7月15日から8月15日にずらしましたが、日本の「お盆シーズン」はまさに8月15日。御先祖様が守ってきた昔からの習慣で、なぜこの日なのか!なんとイスラエルの古代史にルーツがあったのです!!
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Ⅳ エフライム族の4人の頭たち
ユダとイスラエルは周囲の国々を交えて覇権を争いました。その中でイスラエル王ペカは、ユダの軍勢を攻撃し、勇士を殺し、男女を捕虜にしました。これを聞いた預言者オデデが「自分たちが主の前に罪過があるのに、今同胞を奴隷にしようとしている。速やかに同胞を帰しなさい。」と警告しました。(第Ⅱ歴代誌28:9-11)
これを聞いたイスラエルの4人の頭、ヨハンナの子アザルヤ、メシレモテの子ベレクヤ、シャルムの子ヒゼキヤ、ハデライの子アマサたちは、イスラエルの人々に向かい、「同胞を奴隷とするような罪過を続けていると神の怒りが私たちに下される。悔い改めて、同胞を国に帰してあげよう。」と呼びかけました。するとイスラエル人は捕虜を解放し、奪ったものを返し、裸の者に衣服を着せ、食べ物を与え帰してあげました。しかしこれを見ていたユダの王アハズは、感謝もしないで不信仰を繰り返しました。
ユダの捕虜に対するイスラエル人の親切を見ますと、日本人にも共通の血筋が流れているのではないかと思わされます。日本人の民族性の中に流れている温かさは、この行為と似ていると思いませんか?
Ⅴ イスラエル王国の滅亡
紀元前721年。イスラエル王国はこのように偶像礼拝を続けたため、神の裁きによって大国アッシリヤによって滅ぼされ、貴族階級27、290人が遙か東のゴザン川のほとりに連行され、王国は滅亡しました。(第1歴代誌5:26、第2列王記17:6)
彼らは奴隷のように取り扱われ、異邦の民族の中で自分たちの宗教行事を守ることはできませんでした。そのような時、イスラエルの行商人から、「アジアの東の果てに列島があり、そこはまだ人があまり住んでいない。」ということを聞きました。これを聞いたエフライムの頭たちは、「アジアの東の果ての島々なら、外敵の影響を受けることなく、自分たちの宗教性を保持できる」と考えました。この頭たちは、かつてユダの人々をエルサレムに帰した、あの四人が中心だったと思います。
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Ⅵ 東に向かった十部族の有志たち
こうして有志を募り、恐らく三千人ぐらいが賛同し、東に向かう用意を始めました。そしてアッシリヤとバビロンが戦っている隙をついて、一斉に大移動を開始したのです。ユダヤ人のアビグダル・シャハン博士は、ペルシャからアジア全域に渡って十支族の分布状況を調査し、『失われた十支族の足跡』を出版されましたが、あの時東に向かわなかった人々は、ほとんどの地域でイスラム教のなかでひっそりと暮らしていると報告しています。唯一東に向かった集団が眞の信仰を保持していました。
彼らはその途中ユーフラテス川の支流で、神が川の水を止めてくださるという奇跡を体験しました。そしてその途上で、これから行く東の島々で「掟」を守り、祭りを行う「社」の建設を繰り返し学びました。それは出エジプトやソロモンの神殿の構造図に従ったものです。
さらに「契約の箱」のレプリカを作りました。その中には三種の神器を奉納しました。それは十戒の二枚の石の板に相応しいものとして鏡。アロンの杖に対しては由緒のある剣。マナを入れた壺に対してはそれに相応しい壺またはヨードの形をした宝石(勾玉)が用意されました。
以来、旅程の途中で休息する間、「社」の構造図に従って聖なる場所を決めると、至聖所に必ず三種の神器の入った契約の箱のレプリカを安置しました。そして列島に渡った時、イスラエルの宗教性を保持させるために、移動幕屋や神殿に模した「社」をすべての地域に建立させ、それぞれの主体性に任せて、イスラエルで行っていた「過越しの祭り」や「仮庵の祭り」を開催し、その宗教性を保持し、互いのつながりを深めるように指導しました。祭りでは「契約の箱」を担ぎました。こうすることによって、自分たちの子孫に、イスラエルの精神を失うことのないように指導したのです。こうしてついに中国大陸で相当の期間準備の時を過ごし、財力を付け、アジアの風土にも慣れ、稲作、鉄器、養蚕、家畜、言葉、文字といった東洋文化を身に付け、多くの船団を建造して、ついに東の島々に渡りました。
恐らく紀元前300年頃で、彼らが目指したのは出雲でした。一部の集団は荒波にもまれて、沖縄に渡来しました。
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Ⅶ 神社の神秘
大陸と違った風土に悩まされながら、宍道湖や米子の辺りには、荒野をさまよった時と同じような簡単な組み立て天幕が建てられました。そしてやがて一斉に列島全域に分散しました。
毎年10月は全国から指導者が集まって、様々な問題を討議し、これからの在り方を話し合いました。それで全国の指導者が出雲に行ったので10月を「神無月」と呼び、出雲では「神在月」と呼びました。
集団の指導者はエフライム族でしたが、出雲ではルベン、ガド、マナセの半部族が力をつけたので、本来の指導者だったエフライム族は、出雲を出て、九州の高千穂・日向を経て、瀬戸内を東に進み、やがて大和地方に移動したものと思われます。
失われたイスラエル十支族の調査機関「アミシャーブ」が息をのんだのは、日本中至る所にひっそりと安置されている何万という「神社」でした。その深奥で厳粛な神社の構図が、旧約聖書の出エジプトの時荒野で組み立てられた「幕屋」や、エルサレムにあったソロモンの「神殿」と全く同じ構図をしていたからです。一般の人の区域、祭司だけの区域、大祭司だけの区域と三つに分かれており、石畳の道を入ると内庭には手水舎、正面から奥が拝殿、本殿は幕屋の聖所、至聖所と同じ並びです。
前庭の左側には社務所があり、同じ目的の建物はヘブル語でシャマシュと言います。神官を禰宜と呼びますが、ヘブル語でもネギです。祭司の服装も神主と同じでした。見事な杉や檜に囲まれた伊勢神宮は20年に一度遷宮で立て直されますが、出エジプトの時、幕屋移動で立て直した儀式が守り続けられているようです。
神社は御本社二十数社、御分社十五万社、神職常駐社六千社、官邦幣社二百八十社あります。これほどまでに大自然そのものを神としている宗教は神道にしか見出せません。
社を作り、掟を守り、祭りを行える場所によって、地域の人々が神の選びの民であることを感謝し、踊り、供えることでした。そして契約の箱に類似した「お神輿」は、(ヘブル語でミコダッシュ=聖所)です。
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Ⅷ 先住民との交わり
イスラエル人は各地に分散すると、社を建設し、契約の箱を安置。日を決めて儀式を行いました。一方新しい地での気候、農業、漁業等など、生きて行く上の知恵を先住民に学び、先住民と親しくなり始めました。
そして祭りの日、契約の箱を運ぶ時の掛け声が周囲に広がると、先住民は興味津々集まってきて、初めて聞くヘブル語の掛け声、その不思議な儀式に魅了され、自分たちも参加させてくれと言いだしました。そしてどこででも先住民を加えて祭りが行われ始めました。
十部族の指導者たちは、「出雲会議」でこの問題を討議しました。そして神の特別な祝福の言葉を深く思い出し、霊的に高揚され、東の島々で先住民と仲良く共存し始めている意義を、信仰的に検討しました。
そして彼らが古代イスラエルの歴史を回顧した結果、まさに神がアブラハムに約束された信仰のDNA「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」が、この列島で実現しようとしている意義を信仰によって受け入れたのです。
実に神が、この東の島々に渡来したイスラエル十支族、先住民も加えたすべての人々に与えられた祝福であることを、確信したのです。
なんと壮大な信仰ではありませんか。まさに「アブラハムの信仰を基礎とした大リバイバル運動の幕開け」でした。こうしてイスラエル十支族が中心になり、「やしろ」での礼拝、祭りなどを通じて、自然に「おきて」を守るようになった先住民を加えて、いつしか相互が地理的に溶け込み、それぞれ村や町を構成して、一つの民族となって行きました。これが「大和民族の民族性」です。
単に島国だったから起こった現象ではありません。すぐ隣の朝鮮、中国、ロシヤとは異なる国民性、民族性です。神の直接関与という大原則が加わった民族が、この日本列島で熟成されました。
優秀で、思いやりのある神秘な民族性の奥深くには、アブラハムのDNAが流れており、神の祝福がベースとなっていたのです。
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Ⅸ 支族名や個人名を消したのか
列島に渡った十支族は、ものの見事に「支族名」や「個人名」を消されています。ルベン名もなければシメオン名もありません。アッシリヤ周辺に残っている十支族の子孫には族名が残されているのに、列島に渡ってきた人々にはそれらしき名が残されていません。これはイスラエルの失われた部族調査機関「アミシャ-ブ」にとって重大な神秘でした。
彼らはアッシリヤから東を目指すにあたって、彼らが出会ったことのない内陸の多くの民族と、政治的に問題が生じたり、アッシリヤに残された多くの同胞に迷惑がかかることを懸念して、自分たちの間で通用する新しい支族名や個人名を普及させたと思われます。「何もない」ということは、「何かがあった」ということです。
日本には神殿や幕屋そっくりの神社があり、祭りがあり、神道用語や一般用語にも、ヘブライ語がルーツと思われるものが数多くあるというのに、十支族名や個人名に限ってほとんどないのは、なんという神秘、なんという不思議!
そこで私は、「アッシリヤ周辺や、アジア、中国、パキスタン、エチオピアなどに散っている十支族とは全く別に、古代イスラエルの宗教文化遺産保持という明確な目的をもって、遙か東の島々に渡来した特別な集団がいたということであり、彼らは何らかの理由、例えば政治的、民族的理由で、支族名や個人名を消さざるを得なかったのではないか。」と考える時、この神秘が納得できるのです。
『古事記』などの古代史の記録は、これらの後の時代に始まります。
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以上のほかに預言書の中の「十支族の回復預言」も多々ありますが、今回は歴史的問題に止めたいと思います。 以上
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■2013年11月22日(金)5時 ジャパンエスコート世田谷
■ヒカルランド社発刊「日本人のご先祖様は聖書のアブラハム」